ラベルというのは不思議なものだ。
あなたはこういう人だよね、と言われると、そうなのかぁ、そうかもなぁ、となんとなく納得してしまう。気をつけていないと、外からラベルを貼られることに違和感を感じなくなりそうだ。
「僕の奥さんに相応しいのはきみしかいない」みたいに言われたら、発した相手が自分にとって素敵な人であれば、どう思うだろう。自分に置き換えてみても、当時はそう思ったのかも知れないなぁ、なんて思い出されてくる。
この「ラベリング」には、便利なところもある。汎用性の高い役割が与えられるので、そのほうが向いている人もきっといると思う。たとえば子どもがうめるとしたら女性だけだから、女性がそれに専念するタイミングでは、もう片方はそれ以外の役割を担う、のように。
そういうわけで、私も一度(いや、実際には二度)ラベルを自らに貼ってみた。「妻」というラベルだ。結果的に威勢よく剥がすことになるのだが、貼ってみた経験はけっこう、意義のあるものだったと思う。
私に限っていえば、貼ることよりも剥がすことよりも、貼ってあるラベルを維持することが、よっぽど難しかった。先述の「向いている人」側ではないことが1度目ではきちんとわからず、2回も貼っては剥がすを繰り返すこととなった。

2枚のラベルを貼っている間に感じたこととして、共通するのは、「自分の人生の決定権を、半分は夫が持っている」と「思い込んでいた」んだろうなぁ、というところにある。きっとうまく扱える人は、そうは思わないのだろう。
ただ、ほころびを感じるタイミングを見過ごしていた。それをあえてそのままにしていたことは、思い返せば何回もあったと思う。
それは、
「今晩のおかずに黙って醤油を足されたことにムッとしたけど、指摘しないでおいた」
とか、そういうかわいいレベルではない。
「この人と一緒にいて、私はこの先も幸せでいられるのか。」
そういう、人生単位で見逃してはならないはずの、諸々。
この人は「契約」上、夫である。だから排他性がないといけないし、それを維持する義務を追っている。それは同時に、「契約」があるから、内部で少々の「ゆるみ」があっても大目に見てもらえる。多少テキトウに扱うタイミングがあったとしても、そうカンタンに「解約」するものではないし、できるものでもない、という共通認識が、きっと誰のあたまにもある。
少なくとも私はそう感じていた。この、「契約で固まっている」ことが、一番の課題だったのだと思う。
そして結局、ラベルを剥がすことになった。
元夫その1とのラベルを剥がした直接原因は、彼の心変わり疑惑だった。職場で少し気になる人ができたらしく、その人と私とどちらを選ぶか、少し考えて決めようと思う、と言われたのだ。
それを言われた27歳の私は思った。そんな二択で選ばれても困る。じゃあもう私は降ります、となった。背景にはもっと色々と事情はあったが、引き金はこんな感じだった。
解散を決めた数日後、元夫その1の母が謝りに来てくれた。ちょっとした気の迷いだから、まいちゃん、もう少し一緒にいてやってくれないか、と。
母は本当に優しく温かい人だった。地元を離れて嫁に来た私を、本当の娘のように扱ってくれた。だから母がいうならと、少し考えた。

そして、聞いてみた。
「お母さんはなんでお父さんとずっと一緒にいるの?」
母は、間髪をいれずに答えた。
「子供がいるからね」
子供は元夫その1を含めて、3人。うちふたりはすでに家庭を持ち、3人目ももうすぐ大学を出るところだった。要は、もう充分に大人なのだ。
おまけに当時家計を支えていたのは、当の母だった。子どものことだけでなく、自身の経済的なことすらも、配慮する事情はもはや無いように思えた。
義父は気分屋で、働く時と働かない時にムラがあった。文句も言わず、パートを3つ掛け持ちして、家事も全部こなす母。全力で家計を支える妻に、義父がそれほど感謝しているようには見えなかった。なんでお母さんだけそんなに頑張らないといけないの?というふうに、私には見えていた。
あの構造も、もしかしてラベルだったのかな、と思う。母親としてのラベル、妻としての、嫁としての、もしかしたら義母としての、ラベル。そして義父は、ラベルに甘えていたと思う。好きに振る舞っていても、特に感謝なんかを伝えなくても、この人はラベルがあるからずっとこの状態でいてくれる。
ラベルがくれる、確実に(その時点では)選ばれている安心感。そういうのも知っている。その安心感があるからこそ挑戦できる人もいると思う。
2枚剥がして今になって、「こういう関係であればラベルをうまく扱える(だろう)」という仮説はある。でもやっぱり基本は、「人は常に変わりうる」だと思う。
絶対の約束なんて存在せず、ラベルはいつか剥がれる。
