おかげ横丁のつぼやは明るい未来を照らすくじ屋だった

年の瀬に賑わう旧き街より|2023.12.24

女性という生き物のおよそ8割は、感性が豊かで情緒的だと言われる。その一方で私という生き物は残りの2割、左脳優位に成長を遂げた人種らしく、合理的な思考力と冷静な論理力が(時にドライすぎるという課題はあるが)持ち味なようだ。ある人に言わせると、愛らしいリスがハスキーボイスで淡々と平家物語を朗読しているような雰囲気だそうだ。なんという秀逸な言いこなしだろうか。

そんな、目に見えないものは信じないわよ、というタイプの人間でも時折、明らかに非合理としか思えない奇行を取りたくなることがある。それは多忙を極めたサザエさんが、魚をくわえたドラ猫を見つけたが最後、追いかけざるを得ないように。

ここは伊勢神宮・内宮前、おかげ横丁。江戸時代末期から明治時代初期にお伊勢参りで賑わった街並みを再現した一角で、内宮参りのあと寄るつもりはなかったのに、気づいたらもう入っていました、というような好立地にある。その奥まったところに、私の奇行の現場がある。大きな提灯と福かえるが待ち構える縁起のいいくじ屋、つぼやだ。

くじ屋で行なう非合理な行動、当然それは宝くじを購入することに他ならない。少し前の私であればまずしなかったようなことだ。何故ならスクラッチで100万円当たる確率は、たったの0.0002%。逆に完全に外れる確率は約90%。投資金額の300円を回収できる確率すらたった10%とは、どう考えてもむだ遣いだ。買わなければ当たる確率はゼロだから、と言いながら毎回束で買う知人がいるが、実際のところは買っても買わなくても当たる確率は限りなくゼロに等しい。

それでも私は時々、ここで1枚だけスクラッチを引く。天照大御神のお膝元だと未来が照らされそう、という(非合理な)げんを担いでまで、非合理な行動をとるには理由がある。近頃「大きな仕組み」への敬意をとくに感じるからだ。私は一介のハスキーボイスなリスにすぎないが、一方で大きなリスクを取って社会を整備してくれている大きな仕組みは数多い。(その代表格であるファミレスやコンビニ、大手スーパーなどの企業努力には感謝しかない)

そして宝くじも、市民のお財布から巨額のお賽銭(その額は3000億を優に超えるらしい)を社会貢献へと振り分ける貴重な仕組みだとも言える。私が拠点を持たず場所を転々とした生活をさせて頂けているのは、そういった大きな仕組みが稼働している影響は大きい。そこへ非力なリスでも献上できる手段のひとつが、1枚だけのスクラッチなのだ。

それはさておき結局のところ、非合理で情緒的なものへの憧れを感じているのかもしれない。当たらないとわかっていても、銀のシールを削っている1分間だけは何故か当たる気がするものだ。未来へのほのかな期待は人を前向きに、幸せな気分にしてくれる。


摩衣
白いうさぎを追う人
根性なしキャンパー
すきな熟語は"孟母三遷"と"日本酒"
おしながき