伊勢の台所より|2023.12.18
伊勢神宮の外宮からほど近い、伊勢市河崎。江戸時代には「伊勢の台所」と称されたこの土地の一角に、漆黒の鉄扉を持つ名店がある。煌々と照らされたその扉には、虎のエンブレム。鬼虎の家かなにかかと思うほど物々しいため、開くのをためらう者が続出していると聞くが、安心していい。ここは入口のようでいて入口ではない。鬼に食べられる前に路地の奥の隠し扉へ向かうべし。
出足から粋な演出が施されたここは、地元の天然魚を主に扱う酒場『虎丸』。なかなか予約が取れない人気店だ。
店は元々は蔵らしき古い建物で、濃茶色の柱や梁はそのまま活かし、後世になって壁だけが石張りに改装されたようだ。その雰囲気のよさは、辛口コメントが持ち味の気難しい美食家でさえも、思わず「いい店だ」と呟いてしまいそうなほどだ。
実は半年前に一度、ここを訪れる予定にしていた。私は大好物の魚を自粛するほどに心待ちにしていたが、その前日に店主から連絡があった。「いい魚の仕入れがないから、お店を開けません」と。
ショックのあまりしばらく気を失ったが、同時にその誠実さには心を打たれた。自慢の魚を目当てに、はるばる県外から来るお客が多いというのも頷ける。そしてまもなく、私はまんまと首がもげるほどに頷き唸る羽目になった。
これまで名店と呼ばれる店にも幾度かはお邪魔したが、一品一品すべてに驚きや感動があるお店はここが初めてだ。特に自慢のお造りのその旨味と肉厚さは、息をのむほどだった。寿司店では必ずマグロを十貫は食べないと気が済まないという、自称まぐろ評論家(5歳)は、行きつけの回転寿司屋のそれとの違いに困惑し、「ねぇこれほんとにマグロ?」と3回も確認してきた。
魚のほかにも名物料理は数多いが、そのうちのひとつ、肉じゃがをお願いした。それは崩れる寸前まで煮込まれたじゃがいも一つ一つに、ジューシーなバラ肉が丁寧に巻かれているという、規定の路線からは大きく外れた代物だった。口に運ぶや否や、じゃがいもは溶けて消え失せた。かの美食家も、辛口コメントを用意するために三日三晩苦しむと思われるほどの代物だった。
ほかにも、マヨネーズ嫌いの箸も止まらないポテトサラダ、慈善事業なのかと疑うほど贅の尽くされた海鮮15種入りコロッケ、そして地場の美酒の数々。おなかも心も満たされるまでに、それほど多くの時間を必要としなかった。こんな美食が用意されるのであれば、大食漢の鬼虎も人間など食べようとは思わないだろう。
達者な筆文字で書かれた「本日のおしながき」には、ほかにも魅惑の品々が書き連ねられていたが、お腹のなかをどれだけ器用に調整してみても、それらを網羅することは到底できそうになかった。再訪までにギャル曽根大食い塾の門を叩こうと心に決める。
伊勢神宮・外宮には豊受大御神という、衣食住や産業の守り神が祀られているそうだ。虎丸という名店は、神も人も虜にするような酒場だった。