奥大井の渓谷にて|2023.04.28
「鉄道の旅」と聞くと私は言い知れぬ高揚感に包まれる。旧来、異国の読めもしない路線図を片手に鉄道で旅をしていたためか、ローカル鉄道と聞くと、蟻が目の前に落ちている飴玉を無視できないようについ吸い寄せられてしまう。
静岡県にある大井川鐵道は、SLやきかんしゃトーマス号といった魅力的なコンテンツを擁する路線だ。主要駅である千頭駅には、いつ行っても機関車トーマスの愉快な仲間たちであるパーシーやジェームズらが鎮座しており、ファンでなくともつい足を止めてしまう。
だが僭越ながらこの千頭駅ではパーシーではなく「南アルプスあぷとライン」に注目すべきだ。ここには鉄道からしか見られない絶景と非日常の体験という、鉄道旅に期待するすべてが詰まっている。
アプト式とは19世紀のスイス人実業家・アプト氏が発明した登山鉄道用の仕組みで、日本で採用されているのはここだけだそうだ。そう聞くと脳裏には、ハイジがあははと笑いながら丘を駆け登る絵面が浮かぶ。なるほどそれはかなりの勾配だ。
その最急勾配は90パーミル(‰)だそうだが、さて‰とは。数Aで12点を獲得した私にはまるで理解できなかったが、平たく言うと「1000mあたり90mの高さを登る」ということらしい。一般的な鉄道の勾配限界値が25‰だそうなので、予想どおりケタ違いだ。
必然的に速度はかなりのんびりで、25.5kmの距離を約2時間かけて走る。時速にすると約13kmで、これは一般的な人が自転車をこぐ速さと同等だ。さすがに遅すぎると思ったが一方で、たまにはゆっくりしたらどうかしらと諭されているようにも思えた。
この路線専用に作られた平成元年生まれのディーゼル車両は、山間の電車らしくこぢんまりとしている。見どころのひとつは、この小さい車体に絶妙にフィットしたトンネル。もとはダム建設のための路線だったからか、その造りは質素だ。
木漏れ日の中、ゆっくりとトンネルに近づいて行くその様子は、インスタグラマーが小躍りするほどの「映え」だ。トンネルに入ると、明かり一つ無い中をガタゴトゆっくりと走る。ここはUSJの大人気アトラクションです、といわれたら疑わないレベルのわくわく感だ。
トンネルを出るとどこを見ても絶景で、シャッターを切るのに忙しい。訪れたのは桜の直後だったが、樹々の新緑と眼下に広がるエメラルドブルーの大井川が爽やかすぎるため、今日は本当にいい一日だなぁと声に出して言いたくもなる。アプト式の思し召し通り「ゆっくり」できたようだ。
平日の昼間であれば高確率で席を自由に選べるので、ぜひ窓のない車両に乗ってみてほしい。景色とあわせて気持ちのいい風まで存分に感じられる。
この路線はトーマスとはちがい予約がいらないので、明日の予定も決めたくない気まぐれな旅人にもおすすめだ。よく晴れた日にお気に入りの文庫本を片手に訪れてみてほしい。千頭駅の窓口で支払いをすると、つい栞として持ち歩きたくなるような、デザインの良いきっぷを受け取ることができる。