この40年あまりの人生で私は、今日初めてカツ丼を食べた。
私はごく一般的な家庭に育った一介の日本人であり、常識も(おそらく)それなりにあるつもりだが、日本で暮らす日本人なら当然見知っていて然るべきなところ、かすりもせず経験してこなかったような物事が多々ある。そのひとつがカツ丼だった。
カツ丼が既知に変わるキッカケとなったのは、心無い友人からコテンパンに馬鹿にされたことにあった。君は色々と旅をしているわりには知らないことが多すぎる。カツ丼のひとつくらい食べないで、どうやって厚みのある大人になるのだ、と。
細かいことをいうなぁと思いつつ、私も黙ってはいない。勿論こちらにも主張がある。
カツはカツでも、とんかつは私の大好物のひとつだ。ある時は名店と聞けば人口120人の限界集落まで足を運び、またある日の友人とのランチには、人気のパスタ店や話題のベジカフェなどを提案しつつ、徐々にまい泉へと誘導する。
そんなとんかつ愛好家には当然一家言あり、最も欠かせないのは衣のサクサク食感だ。一方でカツ丼という在り方はそれに反する。なぜ食感を台無しにするように卵でとじられなければならないのか。それは普通に炊けば美味しくなることが約束された白米を、ご丁寧に牛乳で炊くようなものだ。たとえメニュー表の巻頭に牛乳ごはんがイチオシとして掲載されていたとしても、私には白ごはんしか見えていないのだから注文のしようがないではないか。
だが友人は私のそんな完璧な主張には片耳も貸さず、文句は食べてから言えと問答無用で馴染みのカツ丼屋を紹介した。そして今日私はしぶしぶ、国道沿いにある人気店を訪ねた。
驚いたことに友人の指摘はごもっともだった。もちろん衣は少々歯ごたえを失ってはいたが、卵と出汁の旨味とロース肉の上品な甘みがうまく馴染んでいた。その美味しさに、私は気づけば120gものカツを素早く食べ尽くした。
私は深く反省した。カツ丼ととんかつは全くの別の食べ物だった。調理過程のほとんどが共通していることから、便宜上同じ店で提供されているだけだ。勝手にイメージしていた「とんかつからその最大の美点であるサクサクを取り去った、残念なかんじのカツ」を、それはいとも簡単に超えていった。
その後の私には悩みがある。長年愛するとんかつと新参のカツ丼は、いつだって同じ店でラインナップされてしまうのだから、今後も私はカツ丼と悩んだ挙げ句に結局とんかつを選んでしまう予感がするのだ。
世の中の民たちは、どの場面でカツ丼ととんかつを頼み分けるのだろう。トレードオフは時に受け入れづらく悩ましい。