瀞峡は唯一無二の絶景を持つ縁起のいい峡谷だった

貸し切りの絶景より|2023.06.29

なんとかと煙は高いところへ登りたがるというが、車の生活に変わってから私も山へ向かいたがるようになった。不思議なもので、延々と数時間山の中を走っていても、樹々に囲まれる景色を見飽きることはない。街を少し走っただけで、そこに溢れかえる広告の類にはすぐ飽きてしまうというのに。生物の本能なのだろうか。

(本物の)自然の景色はもちろんどこも美しいが、なかでも際立って目を奪われる造形美に遭遇することがある。今回もあてもなく走っていた山の中に偶然現れた。

本当は無色透明なんです、と言われてもにわかには信じられないような色の川が、ゆったり悠然と流れている。それを見下ろすように切り立つ岩壁と、その上には岩を地盤としたとは思えないほど豊かな自然林が覆う。ここは瀞峡。どろきょう、と読む。ドロと聞くと、泥やら淀みやらを連想するが、その名のとおり「どろりと川水が淀んだ様子」から命名されたそうだ。キョウとは「峡谷」のことで、幅が狭く両側が切り立った崖からなる谷のことを指す。

ドロの名に反してそれはあまりに美しい。努めてわかり易く表すと、緑と水色の絵の具を混ぜて溶かした色味に近い。瀞峡の名誉のためにもう少し上品にいうとそれは浅葱色、さらに高貴に表現するとティファニーブルーともいえる。その美しく穏やかな流れからは、頑張ってはいますがまだまだ私も瀞の仲間です、と小声でいわれているような謙虚さを感じる。

それにしても、なにがどうなればこうなるのだろう。あまりに完成されたその姿に、感動よりもむしろ脅威を感じる。ドラえもんの優秀な道具を以てしてアーティスト志望のジャイ子が再現しようしても、謙虚な峡谷ですら、それはまだ早いと思いますと進言するだろう。

大阪の女流歌人であり、みだれ髪でおなじみの与謝野晶子も、かつて最愛の夫・鉄幹と共にここを度々訪れ、いくつかの名句を残しているそうだ。当時の交通網では来るだけで一苦労だったはずだが、それでも再訪して一句詠みたくなるのも納得の絶景だ。

みだれ髪をおさえつつ瑠璃色の川を眺めながら、熱愛の末に不倫の恋を実らせた与謝野夫妻にちなんで、僭越ながら私も一句。瀞沼の 恋すら叶う 瀞峡や。いかにも「街」で「すぐ飽きてしまう」類の駄洒落のようだな、とすぐさま顔をしかめる。これでは彼らをゴシップ扱いした当時の世間と変わらない。再訪までにもう少しましな歌を捧げられるよう精進したい。


摩衣
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おしながき