それまで一時的に拠点としていた山奥の屋敷を離れ、ふたたび息子とふたりで旅に出ることに決めたのは、ほんの2週間前のこと。
拠点を持たず気ままに旅をするなら絶対に山梨からと、無意識のうちに決めていました。
それまであまり機会のなかった日本のワインにたくさん出会いたい。まずワイナリー数やワイン生産量で日本一を誇る山梨を選ぶ私は、果たして短絡的でしょうか。それでも、この暑い時期に標高1,000mのこの地を目指すのは、どうやら正しかったようです。
涼しい風が抜ける中、悠々とそびえる富士山の西麓に広がる、朝霧高原。「気持ちの良いドライブウェイ」を具現化したような道が続く。いい旅立ちの日だねぇと息子と言い合う。
このいい日にあわせて私たちは、絶景のもとでワインがいただける、ワイナリー併設の小粋なカフェに向かうことにしました。

そこは紛れもなく「富士山」ワイナリー
木々がトンネルのように囲む、1台が通るのがやっとの小道を進む。しばらくすると突然視界がひらけて、白い雲が流れる空と広大な山と草原を借景に、銀色の建物が佇んでいた。ひと目見て「これはいい感じねぇ」と思わず口にする。
広々とした内装に、のんびりとした雰囲気。ガラス越しに見えるのは、手を伸ばせば届きそうなほど大きな富士山。

通された席でワインを待つあいだ、隣の予約席をセッティングするスタッフの方と少し世間話を。少しのコミュニケーションがあるだけで、居心地がすごく良くなるのが嬉しい。人懐っこい息子も、ワイングラスのセッティングについて興味深そうに質問していました。
オーダーした前菜5種盛りは、手の込んだケークサレやパテ、おつまみにぴったりなハム類から旬の野菜まで、お皿から溢れ出るほどの大盛り。「想定の倍くらいのボリュームですね…!」思わず一言こぼすと、ウェイターさんが笑って頷く。「これ、原価割れしてるってよく言われるんです」
息子が描いていた絵に気づいてくれたスタッフの女性が、やさしい笑顔で話しかけてくれる。平日の昼間、ゆったりと流れる時間が、穏やかな旅の始まりを彩ってくれました。

出合ったワイン
この日いただいたのは、3種類のテイスティングセット。
スパークリングワイン:甲州95%に、マスカット・ベーリーAが5%。泡は繊細で、サラッとぐいっといけます。ワインの名前を聞きそびれました。
フジサンワイナリー甲州:甲州種100%白ワイン(棚仕立て)。ぶどう皮を含まないので渋みなくさっぱりしています。樽熟成のものも混ぜているので、ドメーヌシゼンよりも樽香がする。
Domaine Shizen:甲州種100%白ワイン(垣根仕立て)。和食に合うように考えられているのだそう。
ワインって、記憶をつなげる不思議な道具だなと思います。息子と一緒に来たこの景色と、爽やかな甲州の味わいは、結びついて心に残る。いつか大きくなった彼と一緒に、ワインを愉しめる時が来るといいなと思いながら、小さく切り分けたケークサレをひと口ずつ味わう息子を眺めた。

ワインの味はきっと忘れてしまう。けれど、そのとき隣にいた誰かの表情や声は、不思議と心に残っていく。グラスの向こう側の幼い息子はまさに、大切な記憶のかけら。