こんなにじっくりと、ひとつの街を観察したのは人生で初めてかもしれない。海外はもちろん、日本でもこれほど時間をかけて街を見たことはなかった。1ヶ月と決めていたのが良かったのだと思う。気になるものは見ておきたかった。インドア派なりに、街へ繰り出した。
タクシム広場とアヤソフィアだけを見ていたら、この街のことは何もわからなかっただろう。もっと裏路地に、おもしろいものがわんさかある。日中にも関わらずそこかしこでたむろするおじさんたち。路上で遊ぶ子どもたちの声。地区によってがらりと変わる空気。同じ街のはずが、少し歩くだけで別の街に来たような顔をしている。
それが少しずつ、見えてきた。
街の徘徊と休憩はセットだ。息子とよくカフェに立ち寄る。ある日選んだカフェは、8階建てのビルの1Fと2Fがテラス付きのカフェ、3Fより上がコワーキング兼レジデンスという、今どきのつくりだった。
お店に入ると、若いお兄さんがいた。日本から来たというと、その口からカタコトながら淀みなく日本語が出てきた。息子の名前を日本語で尋ねる。
くつろいでいる途中も気にかけてくれ、息子にさり気なく缶バッジを手渡しに来た。
帰り際、またね、と声をかけた。すると彼は、翻訳アプリに映し出されたメッセージを、息子の目の高さに合わせて差し出した。その文章は、私たちに伝えるために、予め準備してあったようだった。
「ママを守ってね」 「この国の人をカンタンに信じたらダメだよ」
ひと月ほど、この街で過ごしている。親切でおおらかな人たちという印象しかなかった。危なさはほぼ感じていなかったが、まだ見えていないものがあるのだろうか。
感覚を信じることと、感覚だけを信じることは、違うのかもしれない。
イスタンブールでの滞在も終わりに近いある日、息子と本屋に入った。
オイトゥンという名前の男性が声をかけてくれた。グラフィックデザイナーで、この本屋を経営している。10年前にお母さんを亡くされて以来、店に来た子どもに本をプレゼントする習慣があるのだという。よかったら、と。
断る理由が見当たらなかった。
コーヒーを淹れてもらい、私も本を2冊もらった。息子にはトルコの漫画とペンのセット。もらいすぎだな、と何度も思った。
喪失がその人を通り抜けて、子どもへの贈り物に変わっている。人の内側でものごとがどう変わっていくのか、私にはよくわからない。ただ、コーヒーはおいしかった。
彼はバンライフをしてみたいと言った。私の車の写真を見せると、まさにこれがしたい、と目を細めた。
後日、息子の絵の写真をインスタグラムに投稿したら、彼からコメントが届いた。「とても優秀な漫画家になるよ」と。
1ヶ月いて、何かをしてもらった気がしている。
この滞在の仕方がいい、と言いたいわけではない。こうすべきだとも思わない。ただ、1ヶ月という時間があったから、街が少しずつ顔を見せてくれた。警告を込めた親切も、見返りを求めない贈り物も、たぶん同じひとつの街から受け取ったものだ。
どうすればもう少し深く見えるようになるだろうか。
その問いを持ったまま、次の街へ向かう。
